江戸徳川幕府を支えた甲斐(一)

現在山梨に暮らす人々の多くは、山梨について、物理的には日本の中心に位置するが政治的経済的には辺境の、豊かな自然に恵まれている観光地くらいに思っていらっしゃるかもしれない。
戦国時代には信玄公がいらっしゃったが、また江戸時代にも江戸徳川幕府において甲斐は大きな力を持っていた、という話をこれからします。

1582年に天目山の戦いで武田勝頼を破った徳川家康は、慶長10年(1600年)の関ケ原の合戦に勝ち、すぐにも甲斐に入り、慶長12年(1602年)に角倉了以に富士川舟運の開削を命じた。1603年に家康は征夷大将軍を任ぜられ徳川幕府成立。甲斐一国をまるごと天領(幕府直轄領)とした。そのための布石のひとつが富士川舟運であったのだ。その素早さには恐れ入る。

現代の複数の歴史家の見解を見聞することによると、甲府・甲斐は、江戸徳川幕府において戦略上の重要拠点であった。
その他のいくつかの点でも甲斐は徳川幕府の「縁の下の力持ち」であった。

1。甲府城は江戸城のバックアップ

江戸幕藩体制は将軍による独裁体制ではなく、徳川幕府および各藩が協調する連合体制であった。
事実、ペリー来航後の幕末には(”仕付け糸を外された着物のように”by 勝海舟)、はらはらと離ればなれになり、各藩体制になってしまった。

そのため、将軍といえどもどこかの藩または藩の連合による反乱を恐れ、対応策を考えていた。
江戸城が反乱軍の攻撃を受けて持ちこたえられなくなった場合には、将軍は江戸城半蔵門から甲州街道に出て甲斐を目指す。途中、八王子には八王子千人同心を配置してある。甲州街道を西へ、小仏峠、笹子峠を越え、甲府盆地に入り、甲府城へ。甲府城で反乱軍と戦うのだ。

甲斐は高い山々に囲まれて天然の要塞である。富士川舟運を使って駿河に出ることもできる。徳川家康は甲斐を一国まるごと天領にして、そのような構想を描いていたと考えられる。文献は無いが、そうとしか考えられないということである。

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