富士川舟運と道の駅富士川

武田勝頼公が1582年天目山で織田・徳川連合軍に敗れ、武田家は(戦国大名としては)滅亡した。
関ケ原の合戦は1600年。そこで勝利した徳川家康は甲斐に入り、1602年に角倉了以に富士川開削を命じ、了以・玄之の親子2代により、1609年に鰍沢・青柳・黒沢の富士川3河岸から駿河岩淵までの18里に舟を通じさせた。

富士川舟運は「下げ米、上げ塩」と呼ばれ、江戸徳川幕府に納める年貢米を高瀬舟に積んで富士川を下り、塩などの海産物を積んで富士川をのぼった。下りは7時間程度で下流の目的地の岩淵まで行けたが、のぼりは岸から綱で舟を引いて3日ほどかかる重労働であった。

鰍沢で水揚げされた太平洋の塩は「鰍沢」と呼ばれ、甲斐の各地それから信濃までその名を馳せていた。

富士川舟運は明治中期には千艘が往来するほど賑わっていたが、昭和3年(1927年)、身延線の開通により、約300年続いたその歴史を閉じた。

現在、青柳の河岸に「道の駅富士川」があり、自動車で通行する人々や地元の人々で賑わっている。

道の駅富士川

道の駅富士川では地元の農産物や地元でつくられたお菓子などの製品が売られているが、その中に「塩饅頭」を見つけた。塩「鰍沢」の伝統を受け継ぎ、甘さ控えめの、竹林堂さんの塩饅頭は、秀逸な饅頭だと、甘いものが苦手な私Ariizumiは思う。

塩饅頭 made by 竹林堂
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輝く初冬の北岳

昨夜甲府盆地には雨が降ったが、山地には雪が降ったようだ。昨日まで日本で2番目に高い山・北岳には多くの雪の縞模様が見えていたが、今朝見えた北岳は完全に雪に覆われていて雲の晴れ間を縫って、北岳にのみ朝の陽光が当たって光り輝いているのが見えた。1時間ほどして見ると既に雲がかかって、北岳どころかその方向にある山々は見えなくなっていた。

甲府盆地の一角の街に住み、山々を見ながら生活していて、山々の形は変わらなくても同じ景色は二度と見られないということがわかった。同じ場所から同じ方向をみても、季節・時刻・天気によって全く異なり、同じ景色は見られない。
山梨では自動車で移動することが多いが、自動車から見る景色があまりにも美しいので、「おおぉ~!」などと感嘆の声を密かに上げることも多い。わき見運転をしないように注意するのはもちろんだが。
10代の頃は山々が青い壁にしか見えず、こんな壁の中から早く出たい、と考えていた。
帰郷してみて、山々の美しさに気が付いたのだ。
実にMOTTAINAIことをしていたものだと思う。

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愛で地球を包むキティちゃん

大都市の街中のいろいろなところで、キティちゃん売り場や、キティちゃんコーナーを見かける。
そこに集う、幼い女の子、10代と見られる女の子、若い女性、かなりの年齢と見られる女性。
失礼!年齢は関係ないんだ!
その風景を見て、女っていいなあ!と思う。
個々の女性もだが、女性の集団の愛を感じる。

女性の視線の先に有って、女性を笑顔にさせるキャラクターの大物”キティちゃん”。
キティちゃんを生んだサンリオの前身が”山梨シルクセンター”という山梨県の外郭団体であることを知ったとき、僕は嬉しかった。山梨県人として嬉しかったのとともに、元公務員というお堅い方が、こういうかわいいキャラクターを売り物にされていることが、なんとなく嬉しかったのだと思う。

甲府市・武田神社。宝物殿の招き猫のキティちゃん。

”サンリオ”という社名の由来は諸説あるが、山梨の音読みに語呂合わせで”オ”を付けたというのが、一番簡単な発想だが、どうもそれが真相のようだ。

1960年、山梨県産の絹製品を販売する、県の外郭団体「山梨シルクセンター」を独立させ、株式会社山梨シルクセンターとして会社組織に、その後1973年に商号を株式会社サンリオに変更した。
辻信太郎氏が創業当時から現在まで一貫して社長を務めている。
多くの苦難を越えて現在のサンリオを育てていらっしゃった。

日本国内のほか、アメリカ・ヨーロッパ・アジアなど世界中でキティちゃんに代表されるサンリオのキャラクターが知られているようだ。

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Kimihito Ariizumi自己紹介

山梨県に生まれ育ちました。
山梨県の県立高校を卒業後、東京の大学へ。
理工学部数学科でした。
学部を卒業後、情報処理企業としては老舗企業でITエンジニアとして働きました。
退職して数年前山梨へ帰って来ました。

不思議なのは、山梨の山々が美しいことだ。幼児期から高校時代まで山梨に居たとき、甲府盆地を囲む山々は青い壁のように見えていた。それが今は、山々と光と雲のコラボによって、山々の景色は、いつも絵画なのだ。時間とともに変化し、同じ景色を二度と見ることはできない。絵画というより”ショー”というべきだとも思う。ここに人が住み着いてから何万年もの間、自然はこの美しきショーを只で私の先祖に見せてくれていたのだと、時に考える。

私のITエンジニアとして、そしてサラリーマンとしての経験をもとに、今後の日本のために何かアイデアを出せたらいいな、などと僭越なことを考えています。

また、山梨県について私の観点からご案内して行きたいと思っています。

Kimihito Ariizumiは、本名をローマ字で書いたものでありますが、同姓同名の方が1人いらっしゃいます。彼の存在は昔から知っていますが、私のこのブログや、Twitterが、彼に迷惑をかけないことを、私は望みます。

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宇宙ステーション”山梨”

岐阜県の高山市に鉄道に乗って行ったことがあるが、そのとき、高山市が川に沿って走る高山本線と対岸に見える道路が高山市と濃尾平野をつなぐ交通路で、その通行量がそれほど多くないことから、高山市を、宇宙に浮かぶ宇宙ステーションのように思った。

でも、わが故郷・山梨はその上を行くことを忘れていた。
山梨県は県単位で「宇宙ステーション」なのだ。

東京で「故郷は山梨です。」と言うと、「田舎ですね。」と言われることも多い。私の想像だが、そういうことを言う人は、清里や山中湖畔などの風景を報道で見て、県全体が清里や山中湖畔のようなところだと思っているのかもしれない。
初めて甲府を訪れて、「山梨にも大きな街が有るんですね。」などと言う人も多い。

甲府盆地は人口も多く市街地も有るが、東京から甲府盆地を考えたとき、そこへ行く交通路がJR中央本線と中央自動車道と国道20号線くらいしか無く(それだけでもかなりのものだが)、その先に市街地が有って多くの人が住んでいるなんて思いつかないのだろう。

山梨県は東京との間での人や物の流れが多く、その殆どが、前述の中央線、中央自動車道、国道20号線に依っている。

中央自動車道藤野PAに寄るとわかるが、その3路線は、藤野の辺りで集まっている。
このたびの台風19号の影響で藤野の辺りで土砂崩れが発生し、3路線ともそこで土砂に埋まり、不通となっている。
中央自動車道は今日復旧の見込みだが、中央線の完全復旧は10月末の見込みだ。

中央線の不通が続くので、普段は目立たない存在である身延線が大活躍している。特急ふじかわは指定席満席が続いているようだ。臨時列車も何本も運転中だ。

県外との交通路が少ないので、県外との交流も少ないのかもしれない。
例えば、山梨県には県特有の名字が多い気がする。私の名字もそのひとつだが。

”宇宙ステーション”と言うより”陸のガラパゴス”と言うべきかもしれない。

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