山梨食べ切り2020ーこれからも

今年のはじめだったかな?「山梨食べ切り2020キャンペーン」というフレーズを、FMラジオ”FM Fuji”で聞いた。どんな組織が主導しているキャペーンなのか、少し調べたが分からなかった。でも、このキャンペーンの主張は素晴らしいと思った。

2020は西暦2020年とは関係なく、このキャンペーンの主張は、「宴会・飲み会で、はじめの20分は料理や飲み物を味わい、その後、話に花を咲かせ、おひらきの前の20分は料理を残さずに食べることに意を注ごう」というものだ。

その後コロナウイルス騒ぎで宴会・飲み会どころではなくなったが、やがてこの禍も終息するはず。

そうしたら、この2020フレーズを生かして食べ物を大切にし、食べられることに感謝したいと思いますね。

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山梨座標平面と東京多様体

数年前のことです。
JR秋葉原駅で改札を出ると、つくばエクスプレスの駅のほうだったが、山手線より西に行きたかったので、駅員さんに、「西へ行きたいのですが」と、行き方を尋ねた。すると彼は、西がどちらなのかしばらく考えたようだった。そして、「ああ、電気街口のほうですね」と、行き方を教えてくれた。そのとき、東京の人はあまり方向を考えないようだ、と気付いた。

かつて日本テレビ系列で放送されていた「秘密のケンミンSHOW」でも話題になっていたが、山梨県人には、道を人に訊かれたとき、「あの交差点を西に曲がって」とか、東西南北を使って教える、という特徴があるようだ。(道を訊くほうは、西も東もわからないから訊いているのだから、こういう説明のしかたはあまり良くないと言える。)
山梨県人である私にはわからなかったが、東西南北を常に認識していて、それをもとに物事を考え、人に道を教える場合も東西南北という概念を使って教えるのは、山梨県人のユニークな点らしいのだ。

甲府盆地では、南に富士山、北に八ヶ岳、西に赤石山脈(南アルプス)の北岳が高くそびえ立ち、天気も晴れた日が多いので、それらの山がどこからでも良く見えて、常に方向が認識できる。羅針盤の上に住んでいるようなもので、それだから、そのようになったのだと考えられる。

東京の人は、地点ごとに、建物や道路で地図を考えて、その地図帳(ATLAS)を持っているようなのだ。

各点の近傍に局所座標を定義し、その集合を考える。
あっ!これって、40年前に数学科の落ちこぼれ学生であった僕も学んだ、「多様体」ではないか!
と、当時の40年後の今日、気付いて、笑ってしまったのです。(^^♪

山梨県人は、デカルト座標平面の類の「山梨座標平面」に住んでいるが、東京人は、例えば地下鉄の駅や、山手線をはじめとしたJRの駅や、各私鉄の駅を原点とした複数の局所座標を束ねた「東京多様体」の上に住んでいるのだ。(局所座標の原点は駅でなくても良い。)

東京の多様性に改めて気付いた!

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松本あめ市訪問記(3)

本町通りを松本城へ向かって進む。
松本市内からは雪を被った北アルプス(飛騨山脈)がどこからも見える。
なかでも常念岳が目立つ。

本町通りも良いが、大手門通りから登城すると、より気分が良かろうと考えた。
蕎麦屋さんに立ち寄り、蕎麦を食べた。私が現在までに食べた蕎麦の中で私には最高の蕎麦であった。流石、蕎麦どころ信州である。

松本城公園にはいる。立ち並んでいるのは、しだれ桜の木だろうか?春になって再訪したら更に美しいだろうと思えた。

松本城の向こうに飛騨山脈を望む。

スカイラインで言えば常念岳の姿の左のスロープを降り切ったところに、エイエイオー!と槍を突き立てたように立っているのが槍ヶ岳だと、地元の方が教えてくださった。松本市内でもこのあたりからしか、しかも快晴の日しか見えないということだった。見ることができたのはとても幸運であった。

画面まんなかに上に向かって槍を突き上げたように立って見えているのが槍ヶ岳

松本市内では、いたるところに清水が湧き出していて、側溝に清流が流れている。
松本城のお堀にも清水が常に湧き出し、お堀の水はとても澄んでいた。

水面の波の影が、お堀の底に映っているのが見える。

松本城に登城した。

帰途に就く。

来た時に居酒屋のご主人が乾物や佃煮などを売っていたところをさがした。やっと見つけることができた。イナゴの佃煮が未だ売り切れていなかったのでよかった。購入した。1パック500円だった。

あずさに乗って山梨の家に帰宅。
イナゴの佃煮をおつまみに酒を飲む。実に日本酒に合う。稲が穂を付け、米になり、酒になり、一方ではイナゴが穂を食べ、佃煮となって、口の中で再び出会う。実に良い。(^^♪

イナゴの佃煮。
アメリカのリベラリスト昆虫食推進者たちにこの味を教えてあげたい。(^^♪。
酔った!

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松本あめ市訪問記(2)

甲府を9:08の特急あずさ3号に乗る。乗客は満席に近い。甲府市内を抜け、沿って走る国道20号線を左に見ながら、左の赤石山脈(南アルプス)と右の八ヶ岳の間の峠に向かっていく。車窓には冬枯れの木々の連なる森が見える。北杜市のこのあたりの景色は夏もよいが、冬のこの厳しい風景も僕は好きだ。
小淵沢に停車。小海線に乗り換えるらしい人々が降りていった。
富士見に停車。意外と多くの人が降りた。皆さんリュックサックを背負っている。
上諏訪駅に停車。降りる人も多いが乗る人も多い。特急あずさは、県外のビジネス客・観光客の他、地元の人達の日常の足にもなっているようだ。上諏訪から下諏訪にかけて諏訪湖を見ることができる。
塩尻に停車。次の松本まですぐなので降りる準備をする。甲府盆地より標高が600m以上高いらしい松本では耳内の気圧が外気とすぐには合わず、音声が聞こえにくい。
あずさから降りる。松本は流石に寒い。
あずさたちが駐車場に並んでいる。なんか、かわいい。

改札を通り、繁華街の反対側を見ると、雪化粧をした山脈が見える。飛騨山脈だ。

窓ガラスには山の案内があって、山の名称を知るのにはありがたい。

山脈の名前が「北アルプス」とだけしか記されていないことに、私はここで反対意見を表明しておきます。私の地元に近い赤石山脈も「南アルプス」と記されることが多い。でも、北アルプスには「飛騨山脈」、南アルプスには「赤石山脈」、ついでに言うと中央アルプスには「木曽山脈」という歴としたご本名があるのだから、それも使うべきだと、日ごろから思っています。

居酒屋。昼間だから未だ営業していない。長野県には古めかしい建物を残して売り物にしているところが多い。ここの主人と思われる方が店の前にテーブルを置いて乾物や佃煮などを売っていらっしゃいました。イナゴの佃煮を見つけたので、帰りに残っていたら買いますと言って、先に進んだ。

お酒が納めてある。

酒の販売店さん。

信毎メディア・ガーデンで飴を売っていて、黒山の人だかりでした。

あめ市を見に行くだけのつもりだったが、飴をかなりたくさん購入してしまった。
飛騨牛コロッケを売っていたので購入して食す。揚げたてのコロッケを屋外で食べると更に美味しい。

信毎メディア・ガーデンを離れて、松本城に向かった。

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松本あめ市訪問記(1)

「敵に塩を送る」という文は、「たとえ敵でも、苦境の時は助ける」、「敵だからといって、弱みに付け込まない」という意味がある。

戦国時代、甲斐(武田)、駿河(今川)、相模(北条)の結んでいた三国同盟が崩壊した後、駿河今川と、相模北条が、武田信玄の領地である甲斐へ塩を売ることを禁じた。
この時、越後の上杉謙信は、甲斐に生きる民のことを想って塩を送った。塩を送った、というより、塩の輸出禁止をしなかった。
当時、武田領は信濃にも及んでいた。そのため信濃も「塩封鎖」の対象となった。信濃の民にしてみれば、いい迷惑なことである。

上杉謙信が信濃および甲斐への塩の輸送を許したため、信州・松本にも「義塩」が届いた。
それが1月11日であった。

この「敵に塩を送る」の故事に由来した伝統行事「あめ市」が毎年この時期に松本市の中心市街地一円で開催される。江戸時代前期から開催されており、古くは「塩市」だったものが、「塩かます」をかたどった飴を売るようになり、現在の「あめ市」となった。

令和2年は、1月11日(土)、1月12日(日)に開催されている。日曜日である12日に多くのイベントが行われるようだが、私は11日に訪問した。

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晴天なので身延山へ行って来ました

12月初め、山梨県地方は快晴、降水確率0%。かねて見たかった景色を見るために身延山に行くことにしました。

身延線ふじかわ4号静岡行きに乗って身延へ向かいます。9:35身延駅到着。9:45身延駅発身延山行きのバスで身延山へ。
バスを降りて、参道を数百メートル歩いて、三門へ。三門をくぐり、石の階段を登ります。
「年配の方、心臓の弱い方、・・は、階段ではなく男坂または女坂をお登りください」との表示が階段の下にあり、既に「年配の方」には該当する自覚があるので、それに従えばよかったと後悔しながら登ります。(階段も男坂・女坂も登らなくても、自動車で駐車場まで行き、そこから斜行エレベータで久遠寺まで行く方法もあります。)
階段を登ると身延山久遠寺の建物群があります。しばらく休んだあと、読経の聞こえる本堂に外からお参りして、「身延山ロープウェイ」に乗るため、数百メートル歩きます。ロープウェイに乗って身延山山頂へ。

身延山ロープウェイ

身延山山頂は身延山奥之院。日蓮聖人が生まれ故郷の安房小湊のほうを見て親を思った「思親閣」があります。
東に富士山、南は天気が良ければ駿河湾、伊豆半島まで見ることができます。そして今日はとても天気が良い日だったのです。

天守山地の向こうに見える富士山
富士川が画像手前から画像奥に流れて駿河湾に流入します。
駿河湾と、その向こうに伊豆半島が見えます。
富士山、伊豆半島、駿河湾。
パノラマ画像。

北展望台からは、赤石山脈(南アルプス)、甲府盆地などが見えます。

赤石山脈(南アルプス)。
画像右のほうの雪を頂いているのが白峰三山。(向かって左から農鳥岳、間ノ岳(日本で3番目に高い)、北岳(日本で2番目に高い))。画像では雲がかかっていて少し残念。
甲府盆地。
先ほどまでその中に居たのに、不思議に懐かしく感じられた。
「お釈迦様の手のひら」に見えてしかたがない。

眺望を見て感動に浸りながら、身延山ロープウェイで久遠寺駅へ降りて、斜行エレベータで駐車場に降り、さらに歩いて下り、日蓮大聖人御草庵旧跡・御廟のほうへ歩きます。
日蓮聖人御草庵旧跡を拝見しました。
御廟の前では信者の方々が「お題目」即ち「南無妙法蓮華経」を唱えていらっしゃいました。お邪魔をしないように遠くから参拝して帰途につきました。
身延川の川原でお猿を見ました。孫悟空を思い出しました。

お猿。かなり大きい。♂のようだ。見て孫悟空を思い出した。

私の生涯の願いのひとつは、身延山山頂から駿河湾を望むことでしたので、それをかなえることができました。
たいへん良い日でありました。
合掌。

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江戸徳川幕府を支えた甲斐(一)

現在山梨に暮らす人々の多くは、山梨について、物理的には日本の中心に位置するが政治的経済的には辺境の、豊かな自然に恵まれている観光地くらいに思っていらっしゃるかもしれない。
戦国時代には信玄公がいらっしゃったが、また江戸時代にも江戸徳川幕府において甲斐は大きな力を持っていた、という話をこれからします。

1582年に天目山の戦いで武田勝頼を破った徳川家康は、慶長10年(1600年)の関ケ原の合戦に勝ち、すぐにも甲斐に入り、慶長12年(1602年)に角倉了以に富士川舟運の開削を命じた。1603年に家康は征夷大将軍を任ぜられ徳川幕府成立。甲斐一国をまるごと天領(幕府直轄領)とした。そのための布石のひとつが富士川舟運であったのだ。その素早さには恐れ入る。

現代の複数の歴史家の見解を見聞することによると、甲府・甲斐は、江戸徳川幕府において戦略上の重要拠点であった。
その他のいくつかの点でも甲斐は徳川幕府の「縁の下の力持ち」であった。

1。甲府城は江戸城のバックアップ

江戸幕藩体制は将軍による独裁体制ではなく、徳川幕府および各藩が協調する連合体制であった。
事実、ペリー来航後の幕末には(”仕付け糸を外された着物のように”by 勝海舟)、はらはらと離ればなれになり、各藩体制になってしまった。

そのため、将軍といえどもどこかの藩または藩の連合による反乱を恐れ、対応策を考えていた。
江戸城が反乱軍の攻撃を受けて持ちこたえられなくなった場合には、将軍は江戸城半蔵門から甲州街道に出て甲斐を目指す。途中、八王子には八王子千人同心を配置してある。甲州街道を西へ、小仏峠、笹子峠を越え、甲府盆地に入り、甲府城へ。甲府城で反乱軍と戦うのだ。

甲斐は高い山々に囲まれて天然の要塞である。富士川舟運を使って駿河に出ることもできる。徳川家康は甲斐を一国まるごと天領にして、そのような構想を描いていたと考えられる。文献は無いが、そうとしか考えられないということである。

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富士川舟運と道の駅富士川

武田勝頼公が1582年天目山で織田・徳川連合軍に敗れ、武田家は(戦国大名としては)滅亡した。
関ケ原の合戦は1600年。そこで勝利した徳川家康は甲斐に入り、1602年に角倉了以に富士川開削を命じ、了以・玄之の親子2代により、1609年に鰍沢・青柳・黒沢の富士川3河岸から駿河岩淵までの18里に舟を通じさせた。

富士川舟運は「下げ米、上げ塩」と呼ばれ、江戸徳川幕府に納める年貢米を高瀬舟に積んで富士川を下り、塩などの海産物を積んで富士川をのぼった。下りは7時間程度で下流の目的地の岩淵まで行けたが、のぼりは岸から綱で舟を引いて3日ほどかかる重労働であった。

鰍沢で水揚げされた太平洋の塩は「鰍沢」と呼ばれ、甲斐の各地それから信濃までその名を馳せていた。

富士川舟運は明治中期には千艘が往来するほど賑わっていたが、昭和3年(1927年)、身延線の開通により、約300年続いたその歴史を閉じた。

現在、青柳の河岸に「道の駅富士川」があり、自動車で通行する人々や地元の人々で賑わっている。

道の駅富士川

道の駅富士川では地元の農産物や地元でつくられたお菓子などの製品が売られているが、その中に「塩饅頭」を見つけた。塩「鰍沢」の伝統を受け継ぎ、甘さ控えめの、竹林堂さんの塩饅頭は、秀逸な饅頭だと、甘いものが苦手な私Ariizumiは思う。

塩饅頭 made by 竹林堂
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輝く初冬の北岳

昨夜甲府盆地には雨が降ったが、山地には雪が降ったようだ。昨日まで日本で2番目に高い山・北岳には多くの雪の縞模様が見えていたが、今朝見えた北岳は完全に雪に覆われていて雲の晴れ間を縫って、北岳にのみ朝の陽光が当たって光り輝いているのが見えた。1時間ほどして見ると既に雲がかかって、北岳どころかその方向にある山々は見えなくなっていた。

甲府盆地の一角の街に住み、山々を見ながら生活していて、山々の形は変わらなくても同じ景色は二度と見られないということがわかった。同じ場所から同じ方向をみても、季節・時刻・天気によって全く異なり、同じ景色は見られない。
山梨では自動車で移動することが多いが、自動車から見る景色があまりにも美しいので、「おおぉ~!」などと感嘆の声を密かに上げることも多い。わき見運転をしないように注意するのはもちろんだが。
10代の頃は山々が青い壁にしか見えず、こんな壁の中から早く出たい、と考えていた。
帰郷してみて、山々の美しさに気が付いたのだ。
実にMOTTAINAIことをしていたものだと思う。

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愛で地球を包むキティちゃん

大都市の街中のいろいろなところで、キティちゃん売り場や、キティちゃんコーナーを見かける。
そこに集う、幼い女の子、10代と見られる女の子、若い女性、かなりの年齢と見られる女性。
失礼!年齢は関係ないんだ!
その風景を見て、女っていいなあ!と思う。
個々の女性もだが、女性の集団の愛を感じる。

女性の視線の先に有って、女性を笑顔にさせるキャラクターの大物”キティちゃん”。
キティちゃんを生んだサンリオの前身が”山梨シルクセンター”という山梨県の外郭団体であることを知ったとき、僕は嬉しかった。山梨県人として嬉しかったのとともに、元公務員というお堅い方が、こういうかわいいキャラクターを売り物にされていることが、なんとなく嬉しかったのだと思う。

甲府市・武田神社。宝物殿の招き猫のキティちゃん。

”サンリオ”という社名の由来は諸説あるが、山梨の音読みに語呂合わせで”オ”を付けたというのが、一番簡単な発想だが、どうもそれが真相のようだ。

1960年、山梨県産の絹製品を販売する、県の外郭団体「山梨シルクセンター」を独立させ、株式会社山梨シルクセンターとして会社組織に、その後1973年に商号を株式会社サンリオに変更した。
辻信太郎氏が創業当時から現在まで一貫して社長を務めている。
多くの苦難を越えて現在のサンリオを育てていらっしゃった。

日本国内のほか、アメリカ・ヨーロッパ・アジアなど世界中でキティちゃんに代表されるサンリオのキャラクターが知られているようだ。

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