情報セキュリティを確保できないデジタル化は有害だ

情報セキュリティとは

情報セキュリティという言葉について調べてみると、次の事が3要素として挙げられている。

機密性:関係者以外の第三者に機密情報を知られないこと

完全性:正当な操作権利者以外の者による不正な操作が為されないこと

可用性:利用者が必要なときに安全に利用できること

デジタル庁、大丈夫か

令和2年9月に菅義偉内閣が発足した際、デジタル庁を新設するということが発表され、情報システムを政府の中枢に据えるとは先端的な発想だと思ったものだ。でも、「海外からの人材も歓迎する」という言葉を同時に聞き、「ダメだこりゃあ」と思った。

デジタル化において、情報セキュリティがいちばん重要であり、それが確保できないのであれば、デジタル化なんかしないほうが良い。

機密性と完全性を保障するためには、デジタル庁の職員は信用できる人物であることが必要だ。コンピュータ・システムの知識・技術以前に、デジタル庁の職員には日本のために働きたいという強い意志が必要だ。

非常に有能だが日本を嫌いなIT技術者より、それほど有能でなくても日本が好きで日本のために働きたいIT技術者のほうが良いに決まっている。後者のほうが良い、というより、前者はダメだろう。

国家運営に関する機密が漏洩したり、内部資料が不正に改ざんされたりするのならば、デジタル化は有害無益だ。

日本が好きで日本のために働きたいIT技術者の要件は、第1に「日本国籍”だけ”を有する人」であること。国籍が外国であったり、二重国籍を有する人は、その人が持つ国籍の国の利益になって日本の不利益になるような働き方をする可能性がある。だから「海外からの人材も歓迎する」なんてもってのほかである。

河野太郎行政改革担当大臣が、ビデオ・チャット・サービス「ZOOM」でリモート・オンライン会議をすることを促す発言をして、SNS上で批判されると、「国際会議でも使用されている」と反論した。機密を要しない一部の国際会議で使用されているからといって、ZOOMを推奨すべきでは無い。

平井卓也デジタル担当大臣が、中国の通信機器大手ファーウェイ(為華)の製品をデジタル庁に導入すると表明したという情報が、一時SNSに流れたが、ご本人が明確に否定したので、それはよかったと思う。

デジタル化には情報セキュリティが最も重要であり、それが確保できないのならば、デジタル化はしないほうがよいのです。

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フェイクマスコミを卒業

IT(情報技術)の無い時代には口コミ(くちコミュニケーション)だけであっただろう。為政者からの通知は使者による宣告であったと思う。人々の識字率が上がると宣告は文字に書いて掲示することによって行われた。やがて新聞(日本では”かわら版”)(ITの一種)が出現して、人々の社会知識が拡大した。ラジオ、そしてテレビが出現した(それぞれIT)。それによって音声、そして動画の伝達が可能となった。新聞・ラジオ・テレビ等がマスコミと呼ばれ、社会的に大きな力を持つようになった。

マスコミ各社は、はじめは世の中の出来事を素直に誠実に伝達していたのだろうが、マスコミ各社自身の金銭的利益のために脚色を施すことによって拡販を図った。拡販による利益拡大のみが目的となったマスコミ各社は、自分の商品である記事や番組が正確さを欠いても平気になった。彼らは今(西暦2020年初冬)自社の利益のためにフェイクニュースを洪水のように流している。

インターネットが無い時代であれば、すべての人をだますことができたかもしれない。しかしインターネットの発達によって、それは不可能になった。

遠隔地に向けて話しかけることができるようになったインターネットという新しい口コミによって、人々はマスコミから「正しい情報」を取り戻しつつある。

王様のところを服職人が訪れ、王様のために素晴らしい衣装を仕立てた。その衣装は、いままで誰も見たことが無いほどに美しい。しかしそれは、賢者にしか見ることができず、愚か者には見ることができない。王様はその衣装を国民に見せるためにパレードを行った。人々は王様の姿を見て、彼の衣装を褒めたたえた。実際には見えないのに。素直な子供がつぶやいた。「王様は裸だよ。」そのつぶやきを、周りのおとなたちが聞き、「そうだよな。」と、納得した。やがて人々は口々に叫んだ。「王様は裸だ!」(アンデルセン「裸の王様」よりAriizumi要約)

本稿の表題は「フェイクマスコミを卒業」だが、それは二つの意味に取れる。

[1]マスコミさんたちが意図的にフェイクニュースを流すことから卒業する。

[2]われわれ消費者(読者・視聴者)がマスコミから卒業する。

[1]が為されないのであれば、[2]に流れるのは必然的である。

西暦2020年12月20日、マスコミによるフェイクニュースの洪水を眺めながら。

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IT:省力化から文化創造へ(3)

コンピュータの導入によって人の仕事が少なくなって来ていることを述べて来た。
RPA(ロボティカル・プロセス・オートメーション)やAI(人口知能)が導入されることにより、人の仕事の省力化が更に進み、人の仕事が少なくなって行くことが予想される。
コンピュータの更なる発展と今までの仕事が省力化されることが予想されるなかで、われわれはどのようにコンピュータとかかわって行けばよいか?

科学技術計算においてコンピュータの性能が高すぎて困るという心配が無用なのは既に述べた。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、ブログ、動画配信システムなどにより、今までマスコミに独占されていた情報発信が、多くの個人に取って可能となった。その影響は既に経済活動や政治に反映されている。
超多品種少量生産(究極的には手作り)を人の仕事とし、その流通をコンピュータ・ネットワークで行う。
会社組織に属さないで働く。
情報、モノ、労働が、コンピュータによって、定型的な事務作業から文化創造的な働き方に向かって、変わる。そう変わらざるを得ないし、既に変わって来ている。

子どものころの夢を思い出してみよう。
会社にはいって事務的な仕事をしよう、と思っていただろうか?
ビジネススーツを着たサラリーマンに成るのを夢見ていた人もいるかもしれないが、文化創造的な仕事をする職業を夢見ていて、経済的な理由からそれを諦め、給料を頂くために今の仕事に就いたという人も多いのではないだろうか?それを考えれば、コンピュータに事務的な仕事を明け渡すのは、寧ろ良いことかもしれない。
事務的な仕事を今すぐに辞めると経済的に困るが、コンピュータに仕事を奪われるのを恐れるより、自分の才能を信じようではないか。

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IT:省力化から文化創造へ(2)

40年前に比べてコンピュータの性能は1万倍になった。
では「世の中にそれほど計算することが有るのか?」という懸念は現実化したか?
現実化した!

科学技術計算ではコンピュータの性能は高ければ高いほど良い。実数を対象に成り立つ数式をシミュレーションするには、デジタル数字は桁数が多く精度が高ければ高いほど良いからだ。スーパーコンピュータの開発を巡って某国会議員が発言した「2番じゃダメなんですか?」を真に受けてはいけない。各国でスーパーコンピュータの性能を上げる努力が続けられている。科学技術計算においては「世の中にそれほど計算することが有るのか?」という懸念は無用なのだ。

事務計算において、「世の中にそれほど計算することが有るのか?」という懸念が、現実化した!私は事務処理系のシステムの開発や運用に携わるシステムエンジニアのひとりであったが、システムを開発してその運用を開始する毎に、対象の仕事が省力化され、それまでその仕事に携わって来た人員が削減されるのが常であった。人員削減と言っても、日本の雇用慣行では削減対象の仕事の担当者は別の仕事に配置換えされるので、失業するわけでは無い。人の雇用を続けるため、システム化可能な仕事をシステム化しないで、人の仕事を残す場合さえ有った。従業員の雇用を守るため、システム化なんかしなければいい、という考え方も有るが、そんなことをしたら、企業間競争や国際競争に負けて、みんなが失業する恐れが有るのだ。
私Ariizumiは、自分の仕事をシステム化・省力化したのが元で自分の退職を早めた人なのだが、その経緯は後にこのブログで述べたいと思う。
昨年、大手電気機器メーカーや大手損害保険会社で、3千人から4千人規模のリストラが発表された。「リストラ」というのはご存じのように大量退職勧奨計画を表す日本語だ。これはバブル採用組の処遇の問題も有るが、コンピュータの導入による省力化も大きな原因のひとつだと考える。

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IT:省力化から文化創造へ(1)

私は40年前或る情報処理企業へ入社した。
その頃のコンピュータは大型機が主流で、入力は縦10cm、横20cm位の紙のカード、出力は縦30cm、横50cm位の紙であった。
コンピュータ本体は縦横高さそれぞれ2m程の立方体の金属の箱に納められていた。その周りに磁気テープ入出力装置が十数台、磁気ディスク装置が40台から50台が置かれ、カード読み取り装置が1台と数台の高速ラインプリンタが置かれていた。緑色の文字が並ぶブラウン管画面を見ながら、その画面の前にあるキーボードに、男性が何か不思議な文字列をタイプインしていた。SF(サイエンス・フィクション)のいち場面のように見えた。自分が別の惑星に迷い込んだように思ったものだ。

当時は、とても高価で高速処理のできるCPU(中央演算処理装置)に、多くの入出力装置を接続して、1台のコンピュータで大量に計算処理を行うという考え方が主流であった。

半導体の高性能化と大量生産、磁気ディスクの小型化と大量生産が進められ、将来のコンピュータは1万倍の性能を持つようになると予想されていた。そして、「世の中にそれ程計算することが有るのか?」と、懸念もされていた。

当時のコンピュータの仕様が手元に無いので、数値的な比較はできないが、直観的には、「1万倍の性能を持つようになった」と言えるだろう。

大きさは1万分の1、価格も1万分の1。入出力はひとり分の速度だが、世の中に多くのコンピュータ(PC:パーソナル・コンピュータ)が有るので、入出力の待ち時間は無い。それによって、全体で1万倍以上の性能を持つ。

コンピュータの発達はそれで終わりかと思っていたところに、PCの強敵として、スマホ(スマートフォン)が現れた。手のひらサイズのコンピュータだ。手のひらサイズでPCと同等と言ってもよい性能を持つ。

ちなみに、スマホという言葉に、IOS搭載マシンとアンドロイド搭載マシンの両方を含めるのか?、アンドロイド搭載マシンをスマホと呼び、IOS搭載マシンをiPHONEと呼んで区別するのか?現在、両方が混用されていると感じる。

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