山梨座標平面と東京多様体

数年前のことです。
JR秋葉原駅で改札を出ると、つくばエクスプレスの駅のほうだったが、山手線より西に行きたかったので、駅員さんに、「西へ行きたいのですが」と、行き方を尋ねた。すると彼は、西がどちらなのかしばらく考えたようだった。そして、「ああ、電気街口のほうですね」と、行き方を教えてくれた。そのとき、東京の人はあまり方向を考えないようだ、と気付いた。

かつて日本テレビ系列で放送されていた「秘密のケンミンSHOW」でも話題になっていたが、山梨県人には、道を人に訊かれたとき、「あの交差点を西に曲がって」とか、東西南北を使って教える、という特徴があるようだ。(道を訊くほうは、西も東もわからないから訊いているのだから、こういう説明のしかたはあまり良くないと言える。)
山梨県人である私にはわからなかったが、東西南北を常に認識していて、それをもとに物事を考え、人に道を教える場合も東西南北という概念を使って教えるのは、山梨県人のユニークな点らしいのだ。

甲府盆地では、南に富士山、北に八ヶ岳、西に赤石山脈(南アルプス)の北岳が高くそびえ立ち、天気も晴れた日が多いので、それらの山がどこからでも良く見えて、常に方向が認識できる。羅針盤の上に住んでいるようなもので、それだから、そのようになったのだと考えられる。

東京の人は、地点ごとに、建物や道路で地図を考えて、その地図帳(ATLAS)を持っているようなのだ。

各点の近傍に局所座標を定義し、その集合を考える。
あっ!これって、40年前に数学科の落ちこぼれ学生であった僕も学んだ、「多様体」ではないか!
と、当時の40年後の今日、気付いて、笑ってしまったのです。(^^♪

山梨県人は、デカルト座標平面の類の「山梨座標平面」に住んでいるが、東京人は、例えば地下鉄の駅や、山手線をはじめとしたJRの駅や、各私鉄の駅を原点とした複数の局所座標を束ねた「東京多様体」の上に住んでいるのだ。(局所座標の原点は駅でなくても良い。)

東京の多様性に改めて気付いた!

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松本あめ市訪問記(3)

本町通りを松本城へ向かって進む。
松本市内からは雪を被った北アルプス(飛騨山脈)がどこからも見える。
なかでも常念岳が目立つ。

本町通りも良いが、大手門通りから登城すると、より気分が良かろうと考えた。
蕎麦屋さんに立ち寄り、蕎麦を食べた。私が現在までに食べた蕎麦の中で私には最高の蕎麦であった。流石、蕎麦どころ信州である。

松本城公園にはいる。立ち並んでいるのは、しだれ桜の木だろうか?春になって再訪したら更に美しいだろうと思えた。

松本城の向こうに飛騨山脈を望む。

スカイラインで言えば常念岳の姿の左のスロープを降り切ったところに、エイエイオー!と槍を突き立てたように立っているのが槍ヶ岳だと、地元の方が教えてくださった。松本市内でもこのあたりからしか、しかも快晴の日しか見えないということだった。見ることができたのはとても幸運であった。

画面まんなかに上に向かって槍を突き上げたように立って見えているのが槍ヶ岳

松本市内では、いたるところに清水が湧き出していて、側溝に清流が流れている。
松本城のお堀にも清水が常に湧き出し、お堀の水はとても澄んでいた。

水面の波の影が、お堀の底に映っているのが見える。

松本城に登城した。

帰途に就く。

来た時に居酒屋のご主人が乾物や佃煮などを売っていたところをさがした。やっと見つけることができた。イナゴの佃煮が未だ売り切れていなかったのでよかった。購入した。1パック500円だった。

あずさに乗って山梨の家に帰宅。
イナゴの佃煮をおつまみに酒を飲む。実に日本酒に合う。稲が穂を付け、米になり、酒になり、一方ではイナゴが穂を食べ、佃煮となって、口の中で再び出会う。実に良い。(^^♪

イナゴの佃煮。
アメリカのリベラリスト昆虫食推進者たちにこの味を教えてあげたい。(^^♪。
酔った!

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松本あめ市訪問記(2)

甲府を9:08の特急あずさ3号に乗る。乗客は満席に近い。甲府市内を抜け、沿って走る国道20号線を左に見ながら、左の赤石山脈(南アルプス)と右の八ヶ岳の間の峠に向かっていく。車窓には冬枯れの木々の連なる森が見える。北杜市のこのあたりの景色は夏もよいが、冬のこの厳しい風景も僕は好きだ。
小淵沢に停車。小海線に乗り換えるらしい人々が降りていった。
富士見に停車。意外と多くの人が降りた。皆さんリュックサックを背負っている。
上諏訪駅に停車。降りる人も多いが乗る人も多い。特急あずさは、県外のビジネス客・観光客の他、地元の人達の日常の足にもなっているようだ。上諏訪から下諏訪にかけて諏訪湖を見ることができる。
塩尻に停車。次の松本まですぐなので降りる準備をする。甲府盆地より標高が600m以上高いらしい松本では耳内の気圧が外気とすぐには合わず、音声が聞こえにくい。
あずさから降りる。松本は流石に寒い。
あずさたちが駐車場に並んでいる。なんか、かわいい。

改札を通り、繁華街の反対側を見ると、雪化粧をした山脈が見える。飛騨山脈だ。

窓ガラスには山の案内があって、山の名称を知るのにはありがたい。

山脈の名前が「北アルプス」とだけしか記されていないことに、私はここで反対意見を表明しておきます。私の地元に近い赤石山脈も「南アルプス」と記されることが多い。でも、北アルプスには「飛騨山脈」、南アルプスには「赤石山脈」、ついでに言うと中央アルプスには「木曽山脈」という歴としたご本名があるのだから、それも使うべきだと、日ごろから思っています。

居酒屋。昼間だから未だ営業していない。長野県には古めかしい建物を残して売り物にしているところが多い。ここの主人と思われる方が店の前にテーブルを置いて乾物や佃煮などを売っていらっしゃいました。イナゴの佃煮を見つけたので、帰りに残っていたら買いますと言って、先に進んだ。

お酒が納めてある。

酒の販売店さん。

信毎メディア・ガーデンで飴を売っていて、黒山の人だかりでした。

あめ市を見に行くだけのつもりだったが、飴をかなりたくさん購入してしまった。
飛騨牛コロッケを売っていたので購入して食す。揚げたてのコロッケを屋外で食べると更に美味しい。

信毎メディア・ガーデンを離れて、松本城に向かった。

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松本あめ市訪問記(1)

「敵に塩を送る」という文は、「たとえ敵でも、苦境の時は助ける」、「敵だからといって、弱みに付け込まない」という意味がある。

戦国時代、甲斐(武田)、駿河(今川)、相模(北条)の結んでいた三国同盟が崩壊した後、駿河今川と、相模北条が、武田信玄の領地である甲斐へ塩を売ることを禁じた。
この時、越後の上杉謙信は、甲斐に生きる民のことを想って塩を送った。塩を送った、というより、塩の輸出禁止をしなかった。
当時、武田領は信濃にも及んでいた。そのため信濃も「塩封鎖」の対象となった。信濃の民にしてみれば、いい迷惑なことである。

上杉謙信が信濃および甲斐への塩の輸送を許したため、信州・松本にも「義塩」が届いた。
それが1月11日であった。

この「敵に塩を送る」の故事に由来した伝統行事「あめ市」が毎年この時期に松本市の中心市街地一円で開催される。江戸時代前期から開催されており、古くは「塩市」だったものが、「塩かます」をかたどった飴を売るようになり、現在の「あめ市」となった。

令和2年は、1月11日(土)、1月12日(日)に開催されている。日曜日である12日に多くのイベントが行われるようだが、私は11日に訪問した。

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IT:省力化から文化創造へ(3)

コンピュータの導入によって人の仕事が少なくなって来ていることを述べて来た。
RPA(ロボティカル・プロセス・オートメーション)やAI(人口知能)が導入されることにより、人の仕事の省力化が更に進み、人の仕事が少なくなって行くことが予想される。
コンピュータの更なる発展と今までの仕事が省力化されることが予想されるなかで、われわれはどのようにコンピュータとかかわって行けばよいか?

科学技術計算においてコンピュータの性能が高すぎて困るという心配が無用なのは既に述べた。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、ブログ、動画配信システムなどにより、今までマスコミに独占されていた情報発信が、多くの個人に取って可能となった。その影響は既に経済活動や政治に反映されている。
超多品種少量生産(究極的には手作り)を人の仕事とし、その流通をコンピュータ・ネットワークで行う。
会社組織に属さないで働く。
情報、モノ、労働が、コンピュータによって、定型的な事務作業から文化創造的な働き方に向かって、変わる。そう変わらざるを得ないし、既に変わって来ている。

子どものころの夢を思い出してみよう。
会社にはいって事務的な仕事をしよう、と思っていただろうか?
ビジネススーツを着たサラリーマンに成るのを夢見ていた人もいるかもしれないが、文化創造的な仕事をする職業を夢見ていて、経済的な理由からそれを諦め、給料を頂くために今の仕事に就いたという人も多いのではないだろうか?それを考えれば、コンピュータに事務的な仕事を明け渡すのは、寧ろ良いことかもしれない。
事務的な仕事を今すぐに辞めると経済的に困るが、コンピュータに仕事を奪われるのを恐れるより、自分の才能を信じようではないか。

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IT:省力化から文化創造へ(2)

40年前に比べてコンピュータの性能は1万倍になった。
では「世の中にそれほど計算することが有るのか?」という懸念は現実化したか?
現実化した!

科学技術計算ではコンピュータの性能は高ければ高いほど良い。実数を対象に成り立つ数式をシミュレーションするには、デジタル数字は桁数が多く精度が高ければ高いほど良いからだ。スーパーコンピュータの開発を巡って某国会議員が発言した「2番じゃダメなんですか?」を真に受けてはいけない。各国でスーパーコンピュータの性能を上げる努力が続けられている。科学技術計算においては「世の中にそれほど計算することが有るのか?」という懸念は無用なのだ。

事務計算において、「世の中にそれほど計算することが有るのか?」という懸念が、現実化した!私は事務処理系のシステムの開発や運用に携わるシステムエンジニアのひとりであったが、システムを開発してその運用を開始する毎に、対象の仕事が省力化され、それまでその仕事に携わって来た人員が削減されるのが常であった。人員削減と言っても、日本の雇用慣行では削減対象の仕事の担当者は別の仕事に配置換えされるので、失業するわけでは無い。人の雇用を続けるため、システム化可能な仕事をシステム化しないで、人の仕事を残す場合さえ有った。従業員の雇用を守るため、システム化なんかしなければいい、という考え方も有るが、そんなことをしたら、企業間競争や国際競争に負けて、みんなが失業する恐れが有るのだ。
私Ariizumiは、自分の仕事をシステム化・省力化したのが元で自分の退職を早めた人なのだが、その経緯は後にこのブログで述べたいと思う。
昨年、大手電気機器メーカーや大手損害保険会社で、3千人から4千人規模のリストラが発表された。「リストラ」というのはご存じのように大量退職勧奨計画を表す日本語だ。これはバブル採用組の処遇の問題も有るが、コンピュータの導入による省力化も大きな原因のひとつだと考える。

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IT:省力化から文化創造へ(1)

私は40年前或る情報処理企業へ入社した。
その頃のコンピュータは大型機が主流で、入力は縦10cm、横20cm位の紙のカード、出力は縦30cm、横50cm位の紙であった。
コンピュータ本体は縦横高さそれぞれ2m程の立方体の金属の箱に納められていた。その周りに磁気テープ入出力装置が十数台、磁気ディスク装置が40台から50台が置かれ、カード読み取り装置が1台と数台の高速ラインプリンタが置かれていた。緑色の文字が並ぶブラウン管画面を見ながら、その画面の前にあるキーボードに、男性が何か不思議な文字列をタイプインしていた。SF(サイエンス・フィクション)のいち場面のように見えた。自分が別の惑星に迷い込んだように思ったものだ。

当時は、とても高価で高速処理のできるCPU(中央演算処理装置)に、多くの入出力装置を接続して、1台のコンピュータで大量に計算処理を行うという考え方が主流であった。

半導体の高性能化と大量生産、磁気ディスクの小型化と大量生産が進められ、将来のコンピュータは1万倍の性能を持つようになると予想されていた。そして、「世の中にそれ程計算することが有るのか?」と、懸念もされていた。

当時のコンピュータの仕様が手元に無いので、数値的な比較はできないが、直観的には、「1万倍の性能を持つようになった」と言えるだろう。

大きさは1万分の1、価格も1万分の1。入出力はひとり分の速度だが、世の中に多くのコンピュータ(PC:パーソナル・コンピュータ)が有るので、入出力の待ち時間は無い。それによって、全体で1万倍以上の性能を持つ。

コンピュータの発達はそれで終わりかと思っていたところに、PCの強敵として、スマホ(スマートフォン)が現れた。手のひらサイズのコンピュータだ。手のひらサイズでPCと同等と言ってもよい性能を持つ。

ちなみに、スマホという言葉に、IOS搭載マシンとアンドロイド搭載マシンの両方を含めるのか?、アンドロイド搭載マシンをスマホと呼び、IOS搭載マシンをiPHONEと呼んで区別するのか?現在、両方が混用されていると感じる。

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赤穂浪士討ち入りは終活であったか?

甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は北信濃の支配権を巡って何回も戦った。この数次の戦いが総称して川中島の戦いと言われる。何回も戦わなければならなかった理由のひとつは、当時の武士が農民を兼ねていたため、農閑期である冬季しか戦ができなかったためだ。
織田信長が、常時武士である身分を考案し(兵農分離)、それにより、春から秋にかけての農繁期にも戦ができるようになり、信長は天下統一に向けて大きく進むことができた。

徳川家康が関ケ原の合戦(1600年)を経て天下を統一し、征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を創設した(1603年)。
太平の世になり戦はなくなったが、専門職としての武士は幕府の旗本や各藩の家臣として武士を続けることとなった。戦がないので、武士はそれぞれ些細な仕事を担ってのワーク・シェアリング状態であった。

江戸徳川幕府成立後約百年が経過した。
元禄14年(1701年)3月、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城松の間で刃物を取り出し高家吉良上野介義央を刃傷に及ぶという事件が発生した。将軍綱吉は浅野内匠頭長矩に即日切腹を命じた一方、吉良上野介義央にはお咎めもなく、むしろ見舞いの言葉さえかけたのであった。

浅野家はお家断絶、赤穂藩はお取り潰しとなった。このことにより、赤穂藩家臣は禄も役宅も失うこととあいなった。
このうち「役に立たない昼行燈」と陰で評されていた城代家老大石内蔵助良雄をリーダーとして或る秘密プロジェクトを起こしたグループが居た。浅野内匠頭長矩の弟・浅野大学を家長として浅野家再興を願い、それが叶わなければ、長矩の果たせなかった目的を代わって遂げるため、吉良を討とうとするグループだ。
赤穂浪士グループは、庶民の助けや他の大名の助けも得て、この困難なプロジェクトを推進し、浅野家再興が叶わなかったことを受けて、元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明、吉良邸を襲撃し、吉良上野介を討ち取ることとなった。

僕はこの物語がかなり好きだ。日本人のかなり多くの人々が昔からこの物語を好きだから、歌舞伎や映画やテレビドラマで語られて来たのであろう。
自分が何故この物語を好きなのか考えると、秘密プロジェクト推進の面白さ、大石内蔵助のリーダー像、堀部安兵衛など何人かの際立った登場人物、庶民や他の大名が助けるところ、などだと思える。
「忠義」については、現代日本社会にそういう概念が薄れているせいか、よく理解できないで居た。忠義は感情の問題ではなく、現代日本で考えると国会で多数決で定められた「法律」にも近く、当時の不文律・社会習慣のようなものだったのではないかと思う。だから、それを知らなければ理解できないのであろう。

「赤穂浪士討ち入りは就職活動であった」という説を最近聴いた。討ち入りによって熱意を表し、名声を得て、他の家への家臣としての就職につなげるのが目的だった、という説である。そうとう犬儒主義的(シニカル)な見方であり、僕はかなり不愉快に感じた。自分が興味を持っている対象を冷笑された、興味を持っている自分が冷笑された、そして、日本人が冷笑された、さらには、日本文化が冷笑された、ように思ったのだ。
忠義について理解できなくとも、就職活動とまでは言わないでもらいたい。このエッセイの冒頭でも述べたように、武士はワーク・シェアリング状態であり、それで就職活動につなげられると思ってはいなかったと思う。
そして、就活ではなく終活だったのではないかと考えた。生きることができないから、死に場所・死に方を求めての終活であった、ような気もするのだ。

現代においても、労働流動性の比較的低い日本社会で、失業はかなりつらい。1999年から2012年の14年間の不況により、失業によって約14万人が自殺したという説もある。
女性は失業しても精神的に割と平静だが、男性は失業すると女性に比べてかなり落ち込むという説がある。これは女性の強さという面から語られることが多いが、社会の男性への厳しさの面もある。女性は職業を自己アイデンティティーとしていない人が男性に比べて多く、また、社会も女性には見る目が優しいと思うのだ。若い女性には「家事手伝い」という身分もあるし、それがあっていいと思う。
女性は家の中での仕事も多いし、家の外での職業を持っていなくても社会にも受け入れられる。
それに比べて、男性には仕事を自己アイデンティティーとしている人も多く、職業を持っていない男性には厳しい目が向けられるように、自分では思う人も多いと思う。
それで、仕事を失うことが死ぬよりつらい、という事態が発生する場合があるのだ。

失業して再就職できないから生きることが難しく、武士としての自己アイデンティティーの実現のための、死に場所を見つける「終活」であったと考えることもできる。江戸時代の考え方である「忠義」からであったかもしれないが、それが理解できず、現代の個人主義的な価値観から、自分のことを中心に考えたとして、赤穂浪士の討ち入りは終活であったとも考えられるのである。

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晴天なので身延山へ行って来ました

12月初め、山梨県地方は快晴、降水確率0%。かねて見たかった景色を見るために身延山に行くことにしました。

身延線ふじかわ4号静岡行きに乗って身延へ向かいます。9:35身延駅到着。9:45身延駅発身延山行きのバスで身延山へ。
バスを降りて、参道を数百メートル歩いて、三門へ。三門をくぐり、石の階段を登ります。
「年配の方、心臓の弱い方、・・は、階段ではなく男坂または女坂をお登りください」との表示が階段の下にあり、既に「年配の方」には該当する自覚があるので、それに従えばよかったと後悔しながら登ります。(階段も男坂・女坂も登らなくても、自動車で駐車場まで行き、そこから斜行エレベータで久遠寺まで行く方法もあります。)
階段を登ると身延山久遠寺の建物群があります。しばらく休んだあと、読経の聞こえる本堂に外からお参りして、「身延山ロープウェイ」に乗るため、数百メートル歩きます。ロープウェイに乗って身延山山頂へ。

身延山ロープウェイ

身延山山頂は身延山奥之院。日蓮聖人が生まれ故郷の安房小湊のほうを見て親を思った「思親閣」があります。
東に富士山、南は天気が良ければ駿河湾、伊豆半島まで見ることができます。そして今日はとても天気が良い日だったのです。

天守山地の向こうに見える富士山
富士川が画像手前から画像奥に流れて駿河湾に流入します。
駿河湾と、その向こうに伊豆半島が見えます。
富士山、伊豆半島、駿河湾。
パノラマ画像。

北展望台からは、赤石山脈(南アルプス)、甲府盆地などが見えます。

赤石山脈(南アルプス)。
画像右のほうの雪を頂いているのが白峰三山。(向かって左から農鳥岳、間ノ岳(日本で3番目に高い)、北岳(日本で2番目に高い))。画像では雲がかかっていて少し残念。
甲府盆地。
先ほどまでその中に居たのに、不思議に懐かしく感じられた。
「お釈迦様の手のひら」に見えてしかたがない。

眺望を見て感動に浸りながら、身延山ロープウェイで久遠寺駅へ降りて、斜行エレベータで駐車場に降り、さらに歩いて下り、日蓮大聖人御草庵旧跡・御廟のほうへ歩きます。
日蓮聖人御草庵旧跡を拝見しました。
御廟の前では信者の方々が「お題目」即ち「南無妙法蓮華経」を唱えていらっしゃいました。お邪魔をしないように遠くから参拝して帰途につきました。
身延川の川原でお猿を見ました。孫悟空を思い出しました。

お猿。かなり大きい。♂のようだ。見て孫悟空を思い出した。

私の生涯の願いのひとつは、身延山山頂から駿河湾を望むことでしたので、それをかなえることができました。
たいへん良い日でありました。
合掌。

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江戸徳川幕府を支えた甲斐(一)

現在山梨に暮らす人々の多くは、山梨について、物理的には日本の中心に位置するが政治的経済的には辺境の、豊かな自然に恵まれている観光地くらいに思っていらっしゃるかもしれない。
戦国時代には信玄公がいらっしゃったが、また江戸時代にも江戸徳川幕府において甲斐は大きな力を持っていた、という話をこれからします。

1582年に天目山の戦いで武田勝頼を破った徳川家康は、慶長10年(1600年)の関ケ原の合戦に勝ち、すぐにも甲斐に入り、慶長12年(1602年)に角倉了以に富士川舟運の開削を命じた。1603年に家康は征夷大将軍を任ぜられ徳川幕府成立。甲斐一国をまるごと天領(幕府直轄領)とした。そのための布石のひとつが富士川舟運であったのだ。その素早さには恐れ入る。

現代の複数の歴史家の見解を見聞することによると、甲府・甲斐は、江戸徳川幕府において戦略上の重要拠点であった。
その他のいくつかの点でも甲斐は徳川幕府の「縁の下の力持ち」であった。

1。甲府城は江戸城のバックアップ

江戸幕藩体制は将軍による独裁体制ではなく、徳川幕府および各藩が協調する連合体制であった。
事実、ペリー来航後の幕末には(”仕付け糸を外された着物のように”by 勝海舟)、はらはらと離ればなれになり、各藩体制になってしまった。

そのため、将軍といえどもどこかの藩または藩の連合による反乱を恐れ、対応策を考えていた。
江戸城が反乱軍の攻撃を受けて持ちこたえられなくなった場合には、将軍は江戸城半蔵門から甲州街道に出て甲斐を目指す。途中、八王子には八王子千人同心を配置してある。甲州街道を西へ、小仏峠、笹子峠を越え、甲府盆地に入り、甲府城へ。甲府城で反乱軍と戦うのだ。

甲斐は高い山々に囲まれて天然の要塞である。富士川舟運を使って駿河に出ることもできる。徳川家康は甲斐を一国まるごと天領にして、そのような構想を描いていたと考えられる。文献は無いが、そうとしか考えられないということである。

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